長嶋 有
文藝春秋社 (2002/12/06)
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自分の気持ちを、上手く捉えることができない。
今、嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか、感情は霧がかかっているように曖昧で、そして心のずっと奥の方にある。
短編集「タンノイのエジンバラ」に登場する4人の主人公たちも、感情の蓋に鍵をかけてしまっている自分自身を自覚しているものたちばかりである。
表題作「タンノイのエジンバラ」の「俺」はおたくで無職。
二作目の「夜のあぐら」の「私」は駅前の喫茶店のアルバイト。
三作目の「バルセロナの印象」の「僕」はインターネットの早押しゲームの問題を作っているが旅行中。
四作目の「三十歳」の「秋子」はパチンコ屋の景品係で元ピアノ教師。
四人とも、ほんの少し世間から離れたところに、流されるようにして辿り着き、そこでひっそりと暮らしている。そしてそこから世間を冷静に見つめている。
彼らにとって世間とは最も近しい関係であるはずのの家族のことでもある。
「タンノイのエジンバラ」ではスピーカーとアンプを残して死んだ父を、
「夜のあぐら」では離婚した姉、父親の金で遊んで暮らしている弟、そして別れてしまった両親を、
「バルセロナの印象」では離婚し猫を失った9歳年上の姉を、
「三十歳」では脳梗塞を患い娘の顔も分からなくなった母と、結婚して2人の子どもと2匹の犬に囲まれている姉を、
主人公が語っている。
幼いときの細かい記憶、相手がおそらく覚えていないような微細な記憶、感覚まで覚えておきながら、家族のことを理解しているだろうか?という自問に主人公たちは即答する。否と。
姉の恋を、父親の不義を、弟の挫折を、自分は何も分かっていないし、分からない、と。
自分ではどうしようのない他者との距離、自分ではどうしようもない壁を自覚しながら淡々と生きている(ふりをしている)主人公たち。
共感しつつ、やるせなくもある。
声を出して笑ったり、語気を荒げて怒ったりすることに自分は疲れ切ってしまっていたと思ったが、
本当はそれを抑えてフラットに生きることの方が何倍も疲れることなのだ。
それだからこそ、最後に訪れる感情の自然な高まり、そしてカタルシスは秀逸である。
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